エッセイ

TSUNAMI

TSUNAMI

今日もラジオの生放送があった。一ヶ月以上やっているとさすがに慣れてくるが、ここが一番「やらかす」時期なので気を引き締めていきたい。

 

ラジオでサザンオールスターズの話になって「TSUNAMI」の話をしたら、生放送後にディレクターに「TSUNAMIの話題はちょっと…」とたしなめられた。どういうことかと言うと、「東日本大震災から10年が経ったとはいえ、被災地で『ツナミ』の話は避けましょう」ということだ。

うーむ、なるほど。地雷は思わぬところに潜んでいる。残念ながら僕には被災した人の気持ちはわからない(「人智を超える自然災害で大切な人を亡くした気持ち」に対して、おいそれと「わかる」なんて言うものではない)のだから、そういった理解できない領域には、むやみに触らないのが吉だろう。

 

ただ一方で、ラジオのような「聞き流す」コンテンツでは「不謹慎ワード」は避けるべきだが、ブログのような「自ら選ぶ」コンテンツにまで「不謹慎」の波が及ぶのは、それはそれで間違っていると思う。ラジオと違って、この記事は「TSUNAMI」というタイトルを読み、受け入れた人が来ているはずだし、逆に「TSUNAMI」という7文字がところかまわず検閲されたら、それはいよいよディストピアだ。

この記事を書いているのは、そういうわけだ。

 

 

さて、

 

 

マスクもそうだけど、「昔は良かったのにここ数年『タブー』とされてきた、でもいつかは元に戻るべきもの」って、何をもって元に戻るのだろう、と最近よく考える。

僕らはいつかマスクを外すだろうし、サザンのTSUNAMIだっていつかは聴けるはずだ。

でもそれは、いったい何をもって「解禁」なのだろう。

 

マスクはまぁ予想できる。医療機関から「もう大丈夫」と太鼓判が押され、かつ、テレビの人たち(それこそ総理大臣とか)が大衆の前でマスクを外せば、いよいよ「解禁」なムードになるだろう。ただTSUNAMIに関しては、「もう被災地の人にツナミの話題出しても大丈夫っしょ」とは、僕の生きているうちはならないだろうな。そんなこと言う奴、絶対いちゃいけない。

「戻らない」という可能性だってある。僕らは一生マスクを着けたままで、サザンは二度とTSUNAMIを歌わない。長い目で見れば「永遠」なんてものはないのだけど、僕らが生きているほんの数十年単位で見れば、その可能性は十分にある。(ちょっと不謹慎かもしれないけど、サザンの生きているうちに「TSUNAMI解禁」のムードが来ることは、ちょっと考えにくいと思う)

 

マスク生活が仮にあと10年続いたとして、「マスクを外すとき」ってどんな気持ちになるのだろう。「いけないことをしている」と思うのだろうか。なんか素直に「元通り」とは喜べない気がする。表面上は元に戻ったとしても、「マスクをしていた日々」の後遺症は各所に出る気がする。デスノートの最終回みたいに。

 

 

あと、異性の鼻と口にエロスを感じてしまうような気がする。ていうかもういるんじゃないか、マスクの向こう側に「奥ゆかしさ」を感じてる人。給食の時間に興奮してる中学生、絶対にいるだろ。

 

あとあと、最初の数日は運動がめちゃくちゃ楽しいと思う。もう1年くらいマスクしてやってるから、解放された時どれだけのパフォーマンスが出るのか楽しみだ。ずっと高地トレーニングしてるようなものだからね。

 

あとあとあと、渋谷にフリーハグの若者が大量に湧くと思う。そんで昼のニュースに取り上げられて、みんな苦笑いしつつもどこか嬉しそうな顔をするのだ。

 

 

そして「解禁」後一年間は、「コロナ後はじめての○○○」と言って季節のイベント(花見、海水浴、ハロウィン、クリスマス…)がこれでもかとフィーチャーされて、その一年後には何事もなかったかのように、元に戻るのだ。

そのときには、「飯屋でついたて越しに会話してたわ~~~」と盛り上がりたい。絶対言ってやるんだ。「あれ、なんだったんだろうね」って。

 

今日の筋トレ

脚。

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