ディナーショーなんて、おじさんが行くものだと思っていた。
12月中旬、月の見えない夜のこと。森田友和は、ダウンジャケットのポケットをまさぐりながら、仙台駅西口のペデストリアンデッキを歩いていた。
右ポケットには、短冊の形をした紙チケットが2枚握られている。森田はそれをふんわりと、折れるか折れないかの瀬戸際の力で握っていた。
「森田くんさあ、今度の日曜、このイベント行ってくれない?」
課長の庄司から呼び出されたのが、つい6時間前のことだ。昼休みにデスクで食事をしていたところ、社内PCにメールが届いたのだ。
なんだろう、と思い、食事を切り上げて庄司のもとに向かうと、前触れもなく、短冊型の紙チケットを2枚、ひらひらと渡された。
「悪いんだけどさ、誰かとこのイベント行ってくれない?たしか、家庭は持ってなかったよな? この日はどうせ暇だろう」
コンビニのサンドイッチにむしゃつきながら、特徴的なハスキーボイスを持つ庄司はニヤリと笑った。はあ、という森田に一瞥をくれると、
「頼むよ、森田。俺にも付き合いがあるんだ。知り合いからこのチケットを貰っちまってね。配りきらなきゃいけないのよ」
眼鏡をくいっと上げてニヤリと笑った。森田が断れないのを知っている顔である。
森田は、こういう誘いを断れない。それで得したことも損したこともあったが、今回はきっと後者だろうという直感があった。
はあ、と森田は心の中でため息をつく。
なぜ俺が、課長のチケットノルマの尻拭いをしなければならないのか。
「わかりました、行きます」
意思に反する言葉が自分から飛び出たことにも、もはや森田は驚かない。「この日、このイベントに行けばいいんですよね。連れのアテもいますので、チケット、ありがたくいただきます」
そうこなくっちゃ、と庄司は喜び、森田の手にチケットを握らせる。それでは失礼します、と去ろうとする森田に、庄司は「待て待て」と声をかけた。
「なんでしょうか?」
「いやいや、」
2400円。と庄司は言う。広げた右手は、まっすぐ森田に伸びていた。
森田は、よく言えば生真面目な、悪く言えばクソ真面目な男だった。
山形県の田舎に生まれ、中高では運動部を続けながら中の上の成績をキープし、地元の国立大にストレートで進学し、仙台に本社を置く今の会社に新卒で入社した。
実家から通勤できたものの、両親の提案により仙台に引っ越し、駅から徒歩10分のワンルームで一人暮らしを始めた。
会社では特に目立つこともなく、かと言ってつまはじきにされることもなく、マニュアル以上でも以下でもない愚直な仕事ぶりが評価されていた。
気がつけば、ひとり暮らしを始めて、もう8年になる。休日は駅前の本屋をあてもなく徘徊し、月に一度だけ大学時代の友人と飲みに行く。そんな生活を、森田は飽きるでもなく楽しむでもなく漫然と続けていた。
彼女もいなければ、友達も少ない。冴えない29歳、森田には、誰にも言えない秘密があった。
何を隠そうこの森田、SNSアカウント『アラサーメガネのひとりごとbot』の中の人だったのだ。
『アラサーメガネのひとりごとbot』は、森田の日常を匿名で投稿するアカウントだ。一昔前のネットスラングやユーモアをふんだんに取り入れた投稿が、同世代らしきフォロワーから、懐かしい、あの頃を思い出す、と好評を博していた。現在のフォロワーは約3000人。森田の友人の1500倍である。
『上司に知らんバンドのディナーショーチケット渡されたンゴwww しかも「お前は家庭もないから暇だろ」って煽られたんだがwwwww』
森田がペデストリアンデッキの脇で立ち止まって投稿をすると、1分以内に返信が来る。
『ドンマイや、メガネ氏。ワイは同情するで』
『ディナーショーに行くなら高級なドレスが必要だけど、私はFXで月300万稼いでるからいつ誘われても大丈夫♪』
『(◔ڼ◔)(◔ڼ◔)(◔ڼ◔)(◔ڼ◔)』
この3人は、いつも決まってリプをくれる。森田は順番に『ワイ氏』『FXちゃん』『××××(自主規制)』と呼んでいた。
森田はひとりだけに『いいね』をつけて、目的地である居酒屋に向かう。
「おっす、森田。どうしたんだよ急に」
久しぶりに会った斎藤将吾は、恰幅のいい体をねじこむようにして、居酒屋の4人掛けテーブルに腰掛けた。
「斎藤、ちょっと太ったんじゃないか?」
「嫁さんの料理が美味くてねえ」
「涼子ちゃん、元気?」
「元気だよ。お前によろしくって言ってた」
斎藤夫妻は大学の同級生で、サークルが一緒で仲良くなり、よく3人で遊んでいた。森田はよく涼子の恋愛相談に乗っていたので、卒業後に2人が付き合い出したと聞いた時は嬉しくもあり、同時に少し寂しくもあった。
「で、なんだよ話って」
「斎藤、今度の日曜空いてないか?」
「日曜?まあ、空いてなくはねえよ」
「そうか。じゃあ、ちょうどよかった」
森田は脇にたたんであるダウンジャケットから、例の紙チケットを2枚取り出した。
「これ、今日上司から貰ったんだけど、俺、全然興味なくてさ。斎藤さ、よかったら涼子ちゃんと行ってくれないか?」
「なんだよ、これ」
「わからん。知らんバンドのライブチケット」
「ふーん。なんてバンド?」
森田がバンド名を斎藤に伝えると、斎藤は意外な反応をした。
「ああ、俺、そのバンド知ってるぞ」
「え?マジで?」
意外な展開に、森田は驚いた。
「毎週水曜、車でこのバンドのラジオ聞いてるんだよ」
「なんだよ、斎藤、このバンドのファンだったのか」
「ファンっていうか、まあ、運転中に人の声が聞きたくて、適当なラジオを垂れ流してるだけなんだけどな」
斎藤は頬杖をつきながら答えた。そして、森田がチケットの譲渡を本格的に提案すると、グビリとビールを煽り、姿勢を正し、ニヤリと笑って言った。
「遠慮しとく。森田、お前言ってこいよ」
え、なんでだよ、と森田は尋ねる。斎藤は、
「お前、趣味がないってこの前言ってたろ。新しい趣味を見つける良い機会じゃねえか」
と笑い、すんませーん、と店員を呼び止め、ビールのおかわりを2杯注文した。
「それに、良い出会いだってあるかもしれないし。涼子、お前のこと心配してたぜ」
「そんな絵に描いたようなストーリー、あるわけないだろ」
「それに」
「それに、なんだよ?」
「その日は、ちょっとなあ…」
斎藤はチケットを指でとんとんと叩いた。チケットに印字された日付を見ると、それはちょうど、1年でカップルが共に過ごしたい筆頭日、の、翌日だった。
「この日はキツイわ。何と言っても、俺は可愛い嫁ちゃんと、1日中いちゃいちゃする予定があるからよ」
だよな、と森田は心の中でため息をついた。実は斎藤は、半年ほど前から仕事が猛烈に忙しくなり、涼子との時間をなかなか取れていなかった。森田は、そのことで悩む涼子から、つい3日前、LINEで相談を受けたばかりだったのだ。
斎藤は下手くそなウインクをすると、チケットをすっと返してきた。森田は長い付き合いの中で、斎藤が照れ隠しに下手くそなウインクをするのを知っていた。
「…わかったよ、斎藤」
「わかってくれたか」
「ああ、俺が行く。どうせ暇だしな。実は今日だって、たぶん断られるだろうと思って呼び出したんだ」
なんだよそれ、と斎藤が言う。「じゃあなんで、こんな忙しい年の瀬に俺を誘ったんだ?」
それはまあ、と森田は呟き、運ばれてきた満杯のジョッキをグビリと煽ると、言った。
「久しぶりに、お前に会いたかっただけさ」
数少ない友人だからな、と、森田が下手くそなウインクをすると、2人はケラケラと笑った。
ディナーショーの会場は小さかった。
お洒落で明るい客席には、まばらにテーブルが置かれ、すでに先客がばらばらと着席し、談笑していた。
「森田様ですね。こちらへご着席ください」
受付で案内されたテーブルは4人席で、すでに森田の他に2人が着席しており、森田が着席すると、各々がぺこりと会釈してきた。
はじめまして、と会釈を返して森田は着席すると、すでに2人はスマホをいじり始めていた。どうやらこの2人は知り合い同士ではないらしく、周りの騒ぎ具合から察するに、どうやらこのテーブルがひとりで参加した者の寄せ集め席であることが、森田にはわかった。
『結局ディナーショーひとりで来たンゴ。チケット2枚はやっぱり要らなかったンゴねえwww』
投稿すると、すぐさま返信が来る。
『ディナーショーで出てくる高級ワインって普通家では飲めないけど、私はFXで月300万稼いでるから好きなときに買えるんです♪』
『(◔ڼ◔)(◔ڼ◔)(◔ڼ◔)(◔ڼ◔)』
あれ?と森田は思う。いつも返信をくれる『ワイ氏』がいない。普段ならこの時間、夜の18時台なら、すぐさま返信をくれるのに。
「あれえ、森田くん。まさか本当に来るとは」
突如、後ろからかけられたハスキーボイスに振り向くと、そこにはニヤニヤ笑う庄司と、隣には、見慣れない微笑み顔の女性がスマホをいじりながら立っていた。
「課長。お疲れ様です」
「いやあ、正直、君は来ないと思っていたから驚きだよ」
ノルマ分のチケットを買ってさえくれれば良かったからね、と庄司の頭上に文字が浮かぶ。森田はその文字に一瞥をくれると、庄司の隣の女性に目線をずらした。
「課長、こちらの方は?」
「ああ、こいつ?」
こいつは、俺の恋人さ。と言いながら庄司は森田に近づき、そして、あれよあれよと言う間に森田の右耳に口を近づけると、「本当は愛人」と囁いた。生暖かい息が、森田の鼓膜を刺激する。左耳まで貫通するかのような吐息にゾッとした。
「ねえ、庄司くん。何話してるの?」
「ああ、仕事の連絡よ。こいつ俺の部下でさ。今日中に伝えなきゃいけねえことがあったって、こいつの顔見たら急に思い出したんだ。」
日曜日になんて無理のある嘘、と森田は焦ったが、森田の予想に反して女性は「なんだ、そうなの」と納得した様子だった。どうやら本当に信じているようだ。
「そうだ、庄司くん。この人にもあれ、教えてあげようよ」
女性が庄司に何かを提案した。庄司が「おう、そうだな」と了承すると、女性は、小綺麗な革製のカバンから、ごそごそと資料のようなものを取り出した。
そして、その分厚い書類を、森田に「これ、よかったら」と渡してきた。
「私、資産運用の仕事をしてるんです。あの、FXとか興味ないですか?」
突然の誘いに、森田は戸惑いを隠せない。
「月300万円も夢じゃないですよ」と女性は言う。森田は「それだけ稼げれば、ワインもドレスもいくらでも買えますね」と返した。
自分の指定席に戻った森田は、女性の誘いを断れたことに感動していた。
人の誘いを断るのは、慣れなかったが、想像していたよりも簡単で、そして遥かに気持ちの良いものだった。
手持ち無沙汰だったのですぐにSNSを開くと、まだ『ワイ氏』からの返信はなく、心なしかタイムラインもいつもより静かだった。
『【悲報】聖なる夜、常連フォロワーがSNSに浮上せず』
投稿すると、すぐに返信が来た。
『大切な夜に、恋人を格安ホテルに誘うわけにはいかない…。でも私はFXで月300万稼いでるからいつでも高級ホテルに行けちゃうんです♪』
『(◔ڼ◔)(◔ڼ◔)(◔ڼ◔)(◔ڼ◔)』
森田は「いいね」をつけずにSNSを消した。ディナーショーが始まる時間になったからだ。主演は、ポップスを歌う2人組バンド。真面目に曲の予習をしてきた森田は、気に入った数曲の演奏を期待し、意外なほどにわくわくしていた。
斎藤の言葉を思い出す。「お前、趣味がないってこの前言ってたろ。新しい趣味を見つける良い機会じゃねえか」
斎藤、と森田は心中でつぶやく。たしかに、来てみるもんだな。
ディナーショーに参加しなければ、このバンドとの出会いはなかった。
森田は、予習の結果、このバンドを結構気に入っていた。それは森田にとって、予期せぬクリスマスプレゼントであり、また、数年ぶりに出会った「好きなバンド」であった。
そして、森田の隣にひとつの空席を残し、ディナーショーはスタートした。
ディナーショーは、終わってしまえばあっという間だった。お酒を飲み、食事を楽しみ、そして爆音に浸った森田は、珍しく上機嫌で会場を出た。
「お、森田くん。おつかれ」
特徴的なハスキーボイス。出口で、庄司に呼び止められた。
「課長、お疲れ様です」
「なんだよ、ニヤニヤして。なんかイイもんでも見えたか?」
「ライブが思ったよりよかったもので」
「そうかそうか、それはよかったなあ」
隣では先ほどの女性が微笑んでおり、森田と目が合うとニコリと笑った。その場にいる全員が、いつもより少し上機嫌だった。
「森田くん、俺はこれから、この娘を連れて家に帰るんだ。お先に失礼するよ」
「そうなんですか。お気をつけて」
庄司はニヤリと笑い、じゃあな、と駅の方向へ向かう。
そのとき、森田に魔が刺した。爆音のおかげで、気が大きくなっていたのかもしれない。
「あ、課長、待ってください」
「なんだよ、俺はもう帰るぞ」
「いや、すみません、大したことではないんですけど…」
きょとんとする庄司と女性に、森田は質問した。
「高級ホテルには行かないんですか?」
12月下旬、満月の夜のこと。森田友和は、ダウンジャケットのポケットをまさぐりながら、仙台駅西口のペデストリアンデッキを歩いていた。
ディナーショーの余韻に浸るために、例のバンドの曲を聴きながら帰宅していた。右ポケットの中には、結局余らせてしまった1枚のチケットが、
…なかった。
あれ、と森田は思い、逆ポケットをまさぐる。左手が空を切る。「チケットがない」
別になくして困るものではないが、せっかくだから余りは記念にとっておこうか。そんなことを考えていたので、森田は少し焦り、鞄のチャックを開けて確かめようとした。
そのときだった。
あの、と後ろから声をかけられ、振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。
「このチケット、お兄さんのですよね?」
白いコートに身を包んだ、20代後半ほどの女性だった。手には、短冊の形をした紙チケットが1枚握られている。それは、森田がなくしたはずのチケットだった。
「これ、落としましたよ」
「ああ、すみません。ご丁寧にどうもありがとうございます」
森田は頭を下げ、チケットを受け取る。何か思うことがあったのか、女性は森田のチケットをじっと見つめていた。5秒後に気まずくなり、では、と立ち去ろうとしたそのとき、再び女性は、森田に声をかけた。
「…あの!」
「はい?」
「そのバンド、お好きなんですか?」
女性は少し遠慮がちに、しかし、はっきりとした口調で聞いてきた。
「突然すみません。実は、私もそのチケット、持ってるんです」
女性はポケットに手を突っ込むと、短冊の形をした紙チケットを1枚取り出した。
え、と森田は驚く。
「今日のディナーショー、ずっと楽しみにしていたんですけど、仕事で行けなくなっちゃって。さっき、やっと会社を出たんですよ。ひどくないですか?こんな大切な日に。…あ、チケット持ってるってことは、お兄さんも、ひょっとしてそのクチですか?」
「あ、いえ、僕はちゃんと行ってきたんです。これは余らせちゃったチケットで…」
森田がチケットをひらひらさせながら言うと、女性は途端に大きな目を輝かせ、ついでに声も1オクターブ上がった。
「え!そうなんですか!いいなあ、ディナーショー。生声、どうでした?曲、何やったんですか?お話聞かせてほしいです!!」
女性の勢いに、森田は少したじろいだ。女性はそれを察知し、「あ、すみません急に…」と身を引いた。
「知らない女からこんなグイグイ来られたら困りますよね…。はは…。すみません、同じバンドが好きなんだって分かったら、なんだか嬉しくなっちゃって」
かなりマイナーなバンドじゃないですか、と女性は付け足す。実際、森田も同じことを考えていた。そして、ひとつだけポカンと空いた空席を思い出した。
あそこに座るはずだったのが、この女性…?
こんな偶然があるなんて。
「突然ごめんなさい!じゃあ私はこれで」
女性は、森田の元を離れ、駅の方面へ去っていく。自分を追い越した背中を見て、森田は逡巡し、悶絶し、そして、突然、斎藤の言葉を思い出す。
「それに、良い出会いだってあるかもしれないし。涼子、お前のこと心配してたぜ」
「そんな絵に描いたようなストーリー、あるわけないだろ」
そんな絵に描いたようなストーリーが、今、森田の目の前にある。
迷っている暇はない。
「あの!」
「はい?」
そして口から飛び出したのは、自分でも拍子抜けするほどシンプルな言葉だった。
「よかったら、ご飯でも行きませんか?」
女性は目を見開き、そして数秒経ってから、コクリと頷き、笑った。
「お店、どこにしますか?」
「あ、僕、探しますよ」
森田はエスコートに慣れていなかった。いつもより重たく感じるスマホを取り出し、画面をタッチして明るくする。
一件、通知が来ていた。某SNSからのメッセージ通知だ。
『すまんの、ワイ氏、実は大学時代から付き合っとる嫁がおるんや。今夜は久しぶりに2人でゆっくりしとるやでww』
数秒間固まった森田は、あの、どうされました?と女性に話しかけられて、ハッとする。
まさかね。
そうだ、お店を探そうと思ってたんだ。ちょっと待ってくださいね、と女性に断りを入れ、森田は慣れないグルメアプリを開き、手際よく操作する。画面から下手くそなウインクが見えた気がした。