エッセイ

ある休日

7月末。引っ越しを間近に控え、東京での仕事納めに奔走していた僕の身に、それは突然降りかかった。

「働きたくない」

僕はたぶん、ストイックな性格だと思う。自分に厳しくするのは得意だ。4半世紀生きてきて、そりゃあロクでもない時期だってあったけれど、そこそこ真面目に生きてきた自負はある。

「働きたくない。」

午前8時の布団の中で、途方もない倦怠感に襲われた。これからやるべきことの全てが面倒くさかった。布団から出ることすら億劫だ。

その日はこれといった用事はなかった。迫りくる〆切とか、引っ越しの諸手続きとか、そういうものを除外すれば、「今日中にどうしても終わらせなければならない事」はなかった。

用事がないから、なのか、働きたくないから、なのか。どちらにせよ、僕はこの日の朝、布団の中で固く、固く決心した。

「今日はなんもしない!全力でダラダラする!」

 

普段なら朝ご飯を作るところをサボり、近所のコンビニで大好きな菓子パンを買ってきた(菓子パンは筋トレの敵なのに!)。普段ならパソコンの電源を入れるところをサボり、3DSの電源を入れた。雪山の恐竜型モンスターを惰性で狩りながら、甘い菓子パンを甘い珈琲で流し込む。

外では、今年の長い梅雨を象徴するかのように、しとしとと雨が降っている。スマホで天気予報を見れば、午後からは晴れると言う。

ソファに寝そべりながら天井を見上げていると、ぽっかりと心に空洞ができたような気がした。

この空洞は何だろう。朝からずっと、いや、もっと言えば、ここ数ヶ月ずっと、心に穴が開いている。よくわからないけど、最近働きづめだし、きっと疲労だろう。

それにしても、

暇。

暇、だな。

いやいや、暇なら仕事をすればいいのだ。というか、暇なはずないのだ。7月中に提出すべき音源がまだ出来上がってないし、作るべき書類だって山積みだ。今日サボっていい理由なんて、ひとつたりともないはずなのだ。

しかし、今日は何もしないと決めた。決めたのだ。

決めたったら決めたのだ。

 

「仕事をしない」という強い意志をもって午前中を過ごしたら、皮肉なことに、仕事がしたくなってきた。

実に阿呆らしい。段々頭が冴えてきて、罪悪感も芽生えてきた。やれやれ、何してるんだ俺は。ティガレックス狩ってる場合じゃなくない?

手を伸ばせば、いつものデスクがある。あの椅子に座れば、15秒で仕事が始められる。トイレに行くよりも早い。

仕事すればいいのに。

しかし、今日は何もしないと決めた。決めたのだ。

ふと、「出かけよう」と思った。

家にいても落ち着かない。家は憩いの場所でもあるが、在宅ワーカーの僕にとって、結局のところ、ここは仕事場なのだ。

そうだ、もうすぐ仙台に引っ越すんだし、今のうちに東京に行こう。

そんで、映画でも見よう。今ジブリやってるし。

僕は髭を剃り、イヤホンをつけて家を出た。

傘は長いものではなく、折り畳みにした。天気予報によれば、午後からは晴れるらしい。

 

池袋駅は相変わらず人だらけで、今日が平日であることを忘れさせる。曇り空からは一筋の太陽も差し込まず、いつ雨が降ってもおかしくない空気だった。

映画まで2時間ある。何をしようか。

コロナもあるので、あまり蜜な場所は避けたい。

飯でも、食うか。

何食うか。

せっかくだし、ラーメンでも食うか。

駅から少し歩いた場所にある小さなラーメン屋に入り、ラーメン(大)にライス、唐揚げも注文した。筋肉が泣いている。いいんだ。今日は悪いことするって決めたんだ。

パンパンになった腹を抱え、楽器店やらCDショップやらをぶらぶらして、30分前には映画館に入場した。

深く椅子に座り、ゲド戦記を見る。賛否の分かれる作品だが、僕は結構好きだ。映画館で見てよかった。

 

映画館を出ると、時刻はもう22時だった。コロナの影響か、繁華街に酔っぱらいは少なかった。キャッチも心なしか元気がなく、片足に体重をかけて気だるそうに立っていた。あれだけ感動した映画の余韻は一瞬で冷め、朝からぽっかり空いた空洞は、まだヒューヒューと音を立ててそのままだった。

雨が、降っていた。

まだ帰りたくない。理由はないが、そう思った。

このご時世、誰かを呼ぶのも憚られたので、一人で居酒屋に入った。大きなTVで興味のないスポーツ中継を見ながら、味の薄い黒ビールを飲んだ。ボーっとTVを見ていると、隣の青年に声をかけられた。

「お一人ですか?」

短い黒髪の、眼鏡をかけた青年だった。固そうな質感のジャケットを着て、こちらを見つめている。「そうです」と僕が答えると「よくお一人で来られるんですか?」と尋ねてきた。

訝しみつつも話してみると、彼はなんと同職の人間で、年も一つ違いということが分かった。

同世代のフリーランスとは、なかなか珍しい。僕は彼とすっかり意気投合し、仕事のことや東京のこと、互いの職歴まで語り合った。

不思議と口がよく回った。

「よかったら今度BBQでもしましょうよ」と彼が言った。反射で「いいですね」と返すが、僕は1ヶ月もしないうちに仙台に引っ越すことが決まっていた。でもそれは、なんとなく、言い出せなかった。彼の好意を無下にしたくなかったからだ。

「フリーランス仲間を集めて毎年BBQしてるんですよ」行きたい。すごく行きたい。僕は東京に、フリーランス友達がほとんどいない。仙台への引っ越し、やめとく?と一瞬思ってしまうほどに、それは魅力的な提案だった。

「待ち合わせがあるので、僕はこれで」

彼はそういうと、連絡先を求めてきた。僕らはSNSを教えあい、別れた。わずか30分ほどの出来事だった。

 

空洞は、埋まっていた。

 

そうして僕は、ようやく気が付いた。あの空洞の理由は、疲労なんかじゃない、誰かと話したかっただけなのだと。

雨は止んでいた。明日からまた頑張ろう、と思えた。

-エッセイ

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