岸川志穂は4月から就職する会社の一室で、とてつもない場違い感に苛まれていた。
会場として用意されたその部屋には、簡易的な机と椅子だけが設置されていた。8畳ほどの小さな密室に通されたのは、岸川志穂の同期が4人。社員と思しき体格の良い男性が2人。そして、派手なスーツに身を包んだ女性が1人。
「この部門の部長を務めます、古山です」と壇上で名乗ったその女性は、20代半ばに見える、眼鏡の奥に鷹のような鋭い目を持つ女性だった。「よろしくね、未来ある新卒のみなさん」
古山は部門の説明もそこそこに、「会社の精神」について語り始めた。「スローガンはやるき、げんき、こんき、です!」と、いつのまにかひと周り高くなった声で言っている。いや、叫んでいる、と表現した方が正確かもしれない。
「みなさんがどんな人間なのか、そんなことは社会では関係ないんです!」
「この会社に来るからには、アツくなければならない!」
「お客様に暑苦しいと言われてからがスタートです!」
唾を飛ばさんばかりの古山の話を聞きながら、岸川志穂は「みなさんがどんな人間なのか」について静かに考えていた。
岸川志穂は生まれつき、人と話すのが苦手だった。緊張しいで、特に初対面の人間を前にすると、声を出せないことも多かった。
そのせいで、子供時代は家に籠りがちだった。しかし、その反動で勉強ばかりしていたおかげで、都内の有名大学に難なく合格し、卒業を控えた今の時期まで、優秀な成績を維持していた。
しかし、長いトンネルのような就職活動は、彼女にとって地獄以外の何者でもなかった。
必死に考えた志望理由も、面接官を前にすると上手に話せない。言葉に詰まっている間に、嫌な沈黙が、毒のように広がっていく。
幸いにも学歴のおかげで、エントリーシートで落とされる会社はひとつたりとも無かった。しかしまた、面接を通してくれる会社も、ひとつたりともなかった。
夏休みになると、大学の友人はとっくに就活を終え、卒業旅行のためのアルバイトに勤しんでいた。もはや焦燥感だけが、岸川志穂の原動力だった。
しかしその感情も、秋が過ぎ、冬が訪れ、突き刺すような寒さによって少しずつ凍りついていくのを感じていた。
もうダメだ、自分は社会に出るべきではないのだ、と諦めかけていたサンタクロースの季節。たまたま手に取った求人誌で見つけたのが、この会社だった。
「新卒、求ム」の文言を見て、ほとんど反射的に応募した。その頃は半ば自暴自棄になっていたため、どうせ面接は通らないだろうけど、と投げやりにエントリーシートを投函した。
それでもポストの前で両手をすり合わせ、ぱんぱん、と2回叩いてから、小さく「よろしくおねがいします」と呟く。それは就活における、岸川志穂なりの願掛けのようなものだった。
その2日後、会社から電話がかかってきた。「エントリーシートは合格っス。面接、できませんか?」と若い男性の声が告げた。
そこからは不思議な時間だった。準備万端で向かった会社の一室で、岸川志穂は自分のエントリーシートではなく、市販のカレンダーを見せられていた。
「4月までの予定をお聞きしてもいいっスか?」と面接官の男性が言う。電話の主で間違いないその男性は、大学院に進んでいる岸川志穂よりも、遥かに年下に見えた。
結局志望理由も聞かれないまま、岸川志穂は面接を終えた。しかし、4月までの細々とした日付を抑えられたことや、希望する部署を聞かれたこと等から、おそらくこれが就職活動の終わりなのだろう、とぼんやり考えていた。
それがつい、1ヶ月前のことだ。
「大きな声こそやるきの証!みなさん一緒にご唱和ください!」と古山が叫んでいる。「やるき!げんき!こんき!」
古山の声はさらに凄みを増し、もはや岸川志穂は尋問を受けているかのような気分だった。
すると部屋の後ろに仁王立ちしていた2人の男性社員が、壊れたロボットのように叫び出した。「やるき!げんき!こんき!」
間髪入れず、古山との応酬が始まった。それは約束された芝居のようにも見えた。「声ぇ!もっと出るだろう!」「申し訳ございません!やるき!げんき!こんき!」「まだ出るだろうが!」「出ます!やるき!げんき!こんき!」「おまえら恥ずかしくないのか!」「自分、恥ずかしいです!やるき!げんき!こんき!」
次の瞬間、突然の沈黙が訪れた。
それは、今まで岸川志穂が経験してきた毒のような沈黙とは、明らかに種類の違う沈黙だった。
古山は新卒社員5人を順番に見て優しく笑った。「いい?君たちはこんな、情けない社員になっちゃいけないよ」
呆然とする新卒5人を尻目に、先程まで叫んでいた男性社員のひとりが声を上げる。「古山部長!ご指導頂き、誠にありがとうございました!」
古山は満足そうな顔でその社員を見つめると、目の前の新卒5人に話しかけた。
「では、みなさんも一緒に、叫んでみましょうか」
一連のやりとりを見て、岸川志穂は心臓が縮み上がっていた。その場の異様な空気に飲まれたのもあるが、今から自分が訳の解らないスローガンを叫ばされる、という現実が恐ろしくて仕方がなかった。そもそも「叫ぶ」なんて動詞は、岸川志穂の辞書には無かった。
「では、5人で一斉に叫んでみましょう。全員起立!」という古山の言葉も、どこか知らない国の言語のように聞こえてくる。あれよあれよと言う間に5人は立たされ、スローガンコールが始まった。「やるき!げんき!こんき!」
岸川志穂はチラリと横を窺う。同期4人は明らかに戸惑っているようだったが、4月からお世話になる会社で失礼があってはいけないと感じたのだろう。叫ぶまではいかずとも、十分に大きな声を発していた。「やるき!げんき!こんき!」「まだ出るんじゃないの?」「やるき!げんき!こんき!」「若いんだから!もっと見せてよ!」「やるき!げんき!こんき!」
「はいストップ」と古山が言う。電池が切れたように、部屋は突然静かになった。
「岸川さん、声が出ていませんね」と古山が言う。岸川志穂はその時はじめて、自分から声が出ていなかったことに気が付いた。
周りに掻き消されていたのではない。そもそも声が出ていなかったのだ。喉はカラカラで、視界がグルグルと回っている。「岸川さん、頑張って!あなたならできる!」と古山が叫んでいるが、もう何を言っているのか分からない。「岸川さんだけ、ひとりで叫んでみましょう」という声が、遥か彼方から聞こえてくる。
(やるき!げんき!こんき!)
「もっと口開けて!」
(やるき!げんき!こんき!)
「声ぜんっぜん出てないよ!」
(やるき!げんき!こんき!)
「頑張れ!あなたならできーーーる!!!」
岸川志穂の記憶は、ここで途絶えている。
意識が戻ったとき、岸川志穂はまず現在地を確かめた。
そこは紛れもなく、先程までいた会社の一室だった。ただひとつ違うのは、横に誰も座っていない、ということだ。同期4人分の椅子は影も形もなくなっていて、狭かった密室がやけに広く感じた。
「岸川さん」と声がして前を見れば、目と鼻の先にあの古山が座っていた。驚きと恐怖で声も出せなかった。
しかし岸川志穂は、古山の表情が嘘のように柔らかいことに気が付いた。「よかった…岸川さん、目が覚めたのね」という声も、別人のように柔らかかった。
「あの…私…」
「あなたは倒れたの。スローガンコールで無理しすぎたみたい」
これは本当に古山なのか?と疑ってしまうほど、目の前の女性は穏やかな雰囲気を醸し出していた。鷹のようだった目尻がふんわりと下がっていて、喋り方は優しく落ち着いている。
「あ、びっくりした?私だって、いつもあんな感じって訳じゃないのよ」古山がくしゃりと笑った。
綺麗な人、と岸川志穂は思う。くだけた言葉で話す古山は、同世代の友達のようにも見えた。気が付けば先程までの恐怖心は、ほとんど消えていた。
すみません、と岸川志穂は声を出す。声が出たことに安心した。「すみません、せっかく準備してくださった研修だったのに…」
「研修?」と古山は驚いた表情を見せる。「あれは研修じゃないわよ」
岸川志穂には、言葉の意味が分からない。
「あれ?電話で言われなかった?…ああ、もしかしてあの子、また適当なことを言ったのね」古山はため息をつき、困った顔で岸川志穂を見た。
「さっきのは集団面接よ。あなたは合格。あとはみんな不合格にして、帰ってもらったわ。」
岸川志穂には、言葉の意味が分からない。
「あんなものに素直に従うような人間は要らないのよ。後ろに立っていた男2人、見たでしょう?あんな風になりたいと思った?面接攻略のための、私なりのヒントのつもりだったのだけど」
岸川志穂は、言葉の意味を考えている。呆然とする岸川志穂に、古山はすぅ、と息を吸って告げる。
「内定、おめでとうございます!」
岸川志穂は両手をすり合わせ、2回叩いた。ぱんぱん、という音が止んだ頃、返事をするために息を吸う。