ボクの母と祖母の誕生日は非常に近く、7月13日と7月15日だ。
近くて覚えやすい、とみんなは思うかもしれない。
しかし残念ながら、ボクはいまだに、どちらがどちらの誕生日なのか覚えていない。
母が13で祖母が15なのか、祖母が13で母が15なのか。
これを毎年確認しては毎年ごめんねと謝り、その翌年には綺麗さっぱり忘れている。
ボクは人の誕生日を覚えるのがすごく苦手だ。
いままでお付き合いした女性の誕生日も、誰一人として覚えられなかった。
月は覚えられるのだけれど、日にちをどうしても覚えられない。毎年その月の頭にはカレンダーを確認し、そうかこの日だったかと認識する。が、その翌日にはもう忘れている。今となっては、もう月すらも覚えていない。
だから重要人物の誕生日は、カレンダーに書くことが必須だ。でないと大変なことになりかねない。逆によく、人間関係に亀裂を生じなかったなと感心する。(知らず知らず生じていたのかもしれないけれど…)
そうしてカレンダーを眺めてみると、誕生日を覚えるべき人物が、意外と多くいることに気がつく。何年も付き合った友人や、尊敬する先輩や、あとはそれこそ家族。そして、自分はこんなにも大事な人の誕生日を覚えられないのかとヘこむ。
でもよく考えてみたら、数字を覚えられないのは誕生日に限った話ではない。
たとえばボクは、所属する会社の売上目標数を覚えていない。暗記は何度も試みたが、どんなに頑張っても、翌日にはきれいさっぱり忘れている。
自分は社会不適合者なのではないか…そんな暗い不安が悶々と立ち込めてくる。周りの人たちが当たり前にできることを、なぜボクはできないのだろう。
そもそも、暗記は得意だったはずだ。高校生の頃、英単語や世界史の用語はいくらでも覚えられた。なのに会社から与えられた「179」という数字、そのたった3ケタが、何をしても覚えられない。(今も「179」と書かれたメモを見て書いている)
…と、ここまで書いてきて、今メモを見た瞬間に天啓がひらめいた。
「見られるものは覚えられないのでは…?」
誕生日も目標数も、しかるべき物を見ればそこに数字が書いてある。もしかしたらボクの脳内では、「この数字はアレを見れば載っているからわざわざ覚えなくてよし」という判断が、淡々と下されているのかもしれない。
合理的とも言えるし、ただの詭弁とも言えるだろう。でもそう考えると、あれもこれも辻褄が合ってしまう。例えばテスト本番で、英単語や世界史用語の書かれたノートを見ることはできない。だからこそ覚えられたと考えることもできる。あとは、ギターのコード進行やエフェクターの各メモリの適正値なんかは、覚えていないと演奏できないから、ボクはすぐに覚えられる。
とすると、だ。
ボクはメモに甘えていたのか。
だとすれば、暗記をするために導き出される結論はただひとつ。
誕生日をカレンダーに書かなければいい。
そうしたらボクはきっと、必死になって暗記することだろう。英単語をたくさん覚えたように、誕生日もそうやって覚えればいい。なんてすばらしい発想だろうか。
そうだ、ためしに今日聞いた母と祖母の誕生日を、カレンダーに書かないことにしよう。そして暗記して、来年の今日は、正しい人に正しい祝福ができるようにしよう。これは自信をもって言えるが、ボクは来年、絶対に忘れる。