昨日の深夜1時ごろから、Amazon primeで映画「ソラニン」を見始めてしまい、一日経った今も余韻でどうしようもない。
序盤で芽衣子が風船をつかみ損ね、辞表を提出するあのシーン。あのシーンが好きだ。何度見ても考えさせられる。
なぜ芽衣子はあのタイミングで辞表を提出したのか。風船をつかみ損ねた程度のことで、生活の核となる仕事を辞めてしまえるものなのか。
ボクは何度も何度もソラニンを見て、ひとつの結論に辿り着いた。
風船は関係ない。
芽衣子は何も考えていない。
なんならあの物語に登場する人物に、誰一人として真面目なことを考えている奴はいない。(そしてそれが、浅野いにお作品の素晴らしさだと思っている)
風船がきっかけ?違う。芽衣子が仕事を辞めたのは、風船を見て何かを考えたからではない。辞表を出したのは、「ただ、なんとなく。」
風船はふわふわとした芽衣子の気持ちのメタファーだったのかもしれないが、それがきっかけだったわけでは、決してない。辞表の提出に明確なきっかけなんて、ない。
…どういうこと?
そんなもん、としか言いようがない。自分が芽衣子と同世代になって分かる。明確なきっかけなど無く、不意に弾けてしまうのが我々。幼い20代。ああ、そうだとも。ロクでもないんだボクたちは。
作品全体に漂うこの「どうしようもなさ具合」が、ボクには大変心地よい。リアルタイムでソラニンに感化された、2010年の新社会人たちよ。2019年の今も、そのどうしようもなさは脈々と受け継がれ、実際こうして、ボクは今、まことにどうしようもない。
何かを決めるのに大それたきっかけなんて必要ないのだと、ソラニンは教えてくれる。若い自分のどうしようもなさを、肯定してもらえた気分になる。「大丈夫、なんとかなるさ。」そのロクでもない思考に脳髄まで溶かされて、ああ、今ボクは、もう、これではダメだと分かっているのだけど、ああ、どうした、もう、これ、あー、どうしようもない。