夕焼けの差し込む放課後の教室で、堤直樹は立花咲と向かい合っていた。
「サキがあんたに話したいことあるって」と向井文香に言われたのが、5時間前のことだ。
幼馴染の彼女は、昼休みの教室にやってくるなり、堤直樹の耳からイヤホンを引っこ抜いた。「なっおきー」と顔を近づけてくる。高校に入ってバッサリ切ったショートヘアが、目の前で小さく揺れた。
なんだよ、と毒付きつつも、嫌な気はしない。この高校でまともに会話ができるのは、向井文香その人をおいて、他にいないからだ。
堤直樹は「なんだよ」と実際に口に出すと、手元の音楽プレーヤーを止め、弁当箱に箸を置いた。
「また音楽聴いてる。なに聴いてたの、直樹?」
「ゼロスタ、ってバンド。文香知ってる?」
しらなーい、と向井文香は舞うように返してくる。あんたがそのバンド好きなのは知ってるけど、と呟いた。この話題はおしまーい、と言いたげな顔だ。幼稚園からの付き合いで、彼女の言いたいことはだいたい、顔を見ればわかるようになった。きっと二言目には、俺が1人でいることをなじってくるに違いない、と思っていると、
「にしてもあんた、まだ1人でお弁当食べてんの?」と向井文香は呆れ顔で尋ねてきた。ほらな。
「そろそろ友達作ったら?」
「いいんだよ、俺は。これで。」
ふーん、と向井文香は頷き、見慣れた表情になる。納得いかない時に口を「へ」の字に曲げるのが、昔からのクセだった。
不服そうな幼馴染に、「趣味の合うやつがいないんだよ」と返したところで、「で、要件は?」と尋ねた。向井文香は口を開く。
立花咲という生徒の存在は知っていた。去年、つまり1年生の頃に、同じクラスだった。
立花咲は入学時から一際目立っており、それはつまるところ、彼女の美貌によるものだった。
くっきりとした目鼻は美しいシンメトリーで、サラサラの黒髪は肩のあたりでふんわりと切り揃えられていた。誰にでもハッキリ物を言うその性格は、男子からはもちろん、女子からも好かれていた。
彼女にアタックして玉砕した屍の数は優に二桁を超え、大学生と付き合っているだとか、本当は同性愛者であるだとか、根も葉もない噂が絶えなかった。
そんな殿上人の立花咲と、スクールカースト最底辺の堤直樹が、会話できるはずもなかった。
だから「5時半に3組の教室で待ってるって」と向井文香から聞いた時には、訝しむ反面、あるはずもない何かを期待している自分が、少し恥ずかしくなった。
そして物語は、冒頭へと戻る。
橙色に染まる教室に、立花咲が入ってくる。先に着いていた堤直樹は、小さく「どうも」と呟いた。
教室には二人の他に誰もいなかった。遠く野球部の掛け声や、吹奏楽部の音色が、やけにハッキリと聞こえた。
立花咲は真っ直ぐに堤直樹の元へ歩み寄ると、目の前で立ち止まった。「堤くん」
橙色が、二人を照らす。何を言われるのか、心臓がバクバクした。
「話って、なに?」
これは立花咲の声だ。え、と堤直樹は聞き返す。
堤直樹は、え、と言うことしかできなかった。話があるのはそっちじゃなかったのか。混乱する堤直樹に、立花咲は追い討ちをかける。
「私に話があるんでしょう?文香に言われて来たんだけど」
それは俺も同じだ。堤直樹は思った。だからこそ、こうしてここに来たのだ。よし、ここはありのままを伝えてみよう。
「実は俺も、立花さんから話がある、って文香に言われて、ここに来たんだけど…」
「は?どういうこと?」向井文香は明らかに怪しむそぶりを見せた。
「や、あの、俺もよく分からないんだけど」
立花さんと同じだ、と堤直樹は言う。立花咲は少し考えるそぶりを見せると、
「じゃあ本当は、話なんてなかったの?」
と訝しげに尋ねてくる。それは…と口ごもる堤直樹に、なーんだ、と拗ねた顔を見せると、
「二人して文香に騙された、ってわけ」
ニヤリと困ったように笑った。曇ったり晴れたり、表情豊かな人だな、と堤直樹は思った。そういうことになるね、とつられて笑ってみたが、うまく笑えたかどうかは分からない。
「それなら、私、帰るね。ばいばい」
立花咲は背を向けると、つかつかと歩き出した。彼女の歩く後だけが教室に響く。野球部の掛け声も吹奏楽部の音色も、一瞬だけ聞こえなくなった気がした。
「あの」という声が自分のものだと気が付くのに、堤直樹は少しだけ時間がかかった。
「あの、立花さん」
なぜ、立花咲を呼び止めたのか、堤直樹自身が一番不思議だった。後になって思えば、絶世の美少女とふたりきり、という二度とないシチュエーションを、少しでも延長したかっただけなのかもしれない。
「あの、えっと…」
「どうしたの?あ、もしかして本当に話があるとか?」
だったらごめんね、帰ろうとしちゃって。と、立花咲が戻ってくる。どうしよう、何か話さないと。どうしよう、何も浮かばない。
向井文香の顔が脳裏をよぎる。引っこ抜かれたイヤホンごしに、「なっおきー」と聞こえた気がした。
「ゼロスタ、ってバンド知ってる?」
ああ、と堤直樹は天を仰いだ。最悪だ。何故よりによって、マイナーなロックバンドの話題なんかを、殿上人の立花さんに問うてしまったのか。そんな下々の音楽、彼女が聴いているはずがないじゃないか…。
橙色が、二人を照らす。何を言われるのか、心臓がバクバクした。
「オトナコノハ」
これは立花咲の声だ。え、と堤直樹は聞き返す。
「私の一番好きな曲。今日は綺麗な夕焼けね」
立花咲は窓の外に顔を向ける。つられて横を向いた堤直樹に、くしゃりと笑いかけた。
「堤くん、ゼロスタ好きだったの?」
「中学の時からずっとね。立花さんも?」
「私も中学から!2年生の頃、ファーストが出たんだよね」
「あれは名盤だよね。オトナコノハも入ってるし」
「オトナコノハ 、いいよねえ。」
「立花さん、あれが一番好きなんだ?」
「うん、好き」
立花咲は力強く答える。「一番好き」
橙色が二人を照らす。堤直樹は、自分があの立花咲と親しく話せているという事実を、まだ受け止めきれないでいた。
そうだ、と立花咲は切り出した。その目は堤直樹を、まっすぐに捉えている。「じゃあさ、」
「私とバンド組まない?」
はじめて目が合った気がした。彼女の大きな目は決して、逸れることはない。
「俺が、君と、バンド?」と、やっとの思いで返した堤直樹に、「君が、私と、バンド」と、立花咲はにっこり微笑みかける。「私に考えがあるの」
「なんだったんだよ、あれは」
翌日の昼休み、堤直樹は向井文香に話しかけていた。「いやあ」と向井文香は目を輝かせる。
「どうだったどうだった?」
「どうだったもこうだったも…」
事の顛末を話す。ふふん、と向井文香は得意げな表情を見せた。
「私、ファインプレー」
「んなことあるか」
最初から、共通の趣味があることを教えてくれればよかったのに。そういうと向井文香は「んー?」ととぼけた。「なんのことー?」
「で、サキとどんな話したの?」
「うーん、結論から言うと、」
堤直樹は向井文香を見つめる。幼いころの面影が残っている。目の前の少女に、堤直樹は言葉を投げた。
「文香、俺と立花さんと、バンドやろう。」
なんのことー?と向井文香は言う。とぼけているわけではなさそうだ。