大学生の頃、お酒の入った後輩がこんなことを言っていた。
「社会人なんてのは、ゆるやかな自殺ですよ」
彼の言葉が、なぜだか今も忘れられない。
ゆるやかな自殺。
話は変わるようで変わらないが、ピーマンという野菜がある。そう、子供が嫌いなアレだ。
ピーマンが嫌いだった子供も、多くは大人になるにつれ、段々と食べられるようになっていく。
あれはズバリ、味覚が鈍くなっているそうだ。子供の舌は敏感で、ピーマンの「苦味」を危険だと判断するためそれを避ける。一方で大人の舌は鈍くなっているため、苦いものも平気で食べられる、だとか。
これも捉え方によっては、一種の自殺と呼べるのではないか。感覚の自殺だ。
感覚の自殺。
社会人になってから、休みの日に動くのが億劫、とか、新しいものに手が出せない、とか、昔好きだったものばかり享受してしまう、とか、そんな話をよく聞く。
告白しよう。自分も、そんな気持ちになることが多い。気持ちに抗えなくなってきた。正直に言えば、学生の頃と比べて、遥かに音楽が作れなくなった。音楽を作っていると、頭に靄がかかったような気分になるのだ。そのフィルター越しに見る視界は酷くくすんでいて、今までどうやって前に進んでいたのか、もはや分からない。
…うまく言語化できないが、そんなところだ。うーん、言葉が足りない。
自分も例に漏れず、少しずつ死んでいるのかもしれない。これが自分で選んだ道だというのなら、なるほどこれは「ゆるやかな自殺」と言って良いだろう。
シナリオは、と考える。シナリオは、これでいいのか。まだどこかに行けるんじゃないか。そんなことばかり考えていたら、24歳になっていた。まだ間に合う。何に?分からない。まだ間に合う。どこへ?分からない。